2017年5月13日土曜日


昨夜、久しぶりに絵を描いた。
三十分くらい描くつもりが描き始めると集中力が続き、結局一時間以上入り込んで描いていた。
気付くと朝六時だったので眠り、今日は絵の続きを描いた。先程完成した。

ここ数日、体調がいい。
残業時間が少なくなったことも影響しているかもしれない。
会社全体が「残業は悪」というモードに本格的に切り替え、また、幸運にアルバイトが入ってきて人員不足が解消された。
地獄のような日々からは、一旦抜け出すことができた。

絵を描いてみると、まだまだ「自分」は残っているなと再確認し安心した。
少しずつ、描く枚数を増やしていきたい。

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「モディリアーニにお願い」を読みながら考えたこと


美術大学を舞台にした漫画、という点に興味を持ちこの漫画を手に取ったのだった。
作者の相澤いくえさんはまだ新人のようだ。
最初読んだ印象は、ざっくりと、
「絵が手描き風で嫌いじゃない」。
「人間ドラマが頭に入らなかった」。
「美術大学を舞台にしているから親近感が持てる」。
「しかしそれゆえに、登場人物と自分のギャップを強く感じ違和感を抱く」。
といった感じだった。

読んだのは数か月前のことだが、今日偶々、本屋でこの漫画がPOPと共に目立つ位置に置いてあるのを見かけた。
自分が買った時は奥の棚に背で指してあり恵まれない感じだったので、おや意外、と思った。

改めて読んでみるといくつか発見があった。

まず、この漫画では、登場人物の表情が「記号的」ではない。なかなか微妙なニュアンスを持った表情をしているのである。
そして同時に、実はそのことが、「人間ドラマが頭に入らなかった」という最初の感想の原因であることにも気付いた。

僕たちは一般に、漫画を読む時、「記号としての表情」にかなり依存しているのだ。
漫画の文字は基本台詞である。その台詞を繋ぐ重要な要素が登場人物の表情であり、それが表しているのは「感情」である。
僕たちが漫画を「読む」と言う時、読んでいる対象は、台詞と感情なのだ(恐らく)。
「記号的な表情」とは、感情が一瞬でわかるように(それこそ文字のように)表現した表情だ。喜怒哀楽がぱっとわかる表情。

単なる文字の連なり(台詞)を頭に定着させる糊のような役目を「表情」は負っている。
そして表情が「記号的」であれば文字との相性がよく、台詞はより頭に定着する。
結果、人間ドラマがよく理解できる、というわけだ。

「モディリアーニにお願い」の場合、表情が記号的でなく、それ自体が絵として独立しているために、大げさに言えば台詞と反発し合っているのだ。
必ずしもそれは悪いことではないだろう。
自分は今回の発見によって、むしろこの漫画の絵の魅力をより強く感じることができた。

漫画にとって、魅力的な絵は不可欠だ。
絵の力が強い。それはとてもいいことだ。その強さに、他の要素を合わせてバランスを取っていけば、きっといい作品になる。
2巻が出るのが楽しみだ。


弟のこと


弟のことが心配である。

小学校の頃は先生たちから評価され、運動もそこそこでき美術も得意で、クラスのリーダーのような存在でもあった弟が今のような状態になってしまったことを思うと、本当に悲劇(喜劇?)だなと感じる。
何が起こるかわからないものだ。
もちろん弟の人生も自分の人生もまだまだ先が長いのであり、本当の意味で悲観しているわけではない。
長い人生の通過点に過ぎない。一つの試練である。

ところで、弟は小学生の頃、「世界の平和」について考えるような少年だった。
世界が平和になるにはどうしたらいいかについて作文を書き、先生からも親からも褒められた。
自分はそのような弟に嫉妬していた部分がないと言えば嘘になるだろう。

ここで僕が思うのは、世界の平和について作文を書くような弟が、では普通の人よりも「優しい心」を持った人であったのか、ということだ。
確かに多くの少年たちは世界の平和について書いたりはしないだろう。だからそのようなことをする弟は「立派」に見えたし「特別な存在」に見えた。周りの人がそう見えるのだから、弟自身も、その視線を内面化し自分がそういう人間であると思っていたかもしれない。

しかし僕はある出来事を思い出す。
小学生の頃だろうか、弟とふとしたことで言い争いになった。何についてだったか内容は思い出せない。ただ、洗濯物を二人で畳んでいる最中だったという状況は覚えている。
結果、僕は弟に泣かされた。その頃は、弟と僕とでは弟の方が言語能力が高かった気がする。しばしば悔しい思いをした。しかしその時弟に抱いた感情は特別だった。「悪魔だ!」と泣きながら弟に言ったのをはっきりと覚えている。
僕がそう言った時の弟の表情は、思い出せそうで思い出せない。
僕は親にも泣きながら弟がいかにずるく、悪人であるかを伝えようと泣き叫んだが、両親はどちらも笑った。確かに「笑った」。

弟が僕に何を言ったのか、何をしたのか、僕がなぜ弟にそのような感情を抱いたのか、それが正当だったのかは今となっては全くわからない。
ただ、その経験は印象に残っている。

今の僕は、弟が決して悪人であるなどとは思っていない。むしろ優しい人間であると思う。
しかし、優しいだけの人間が存在しないことも事実なのだ。人は皆心に悪を抱えている。
人は皆愚かだ、というのが今の自分の価値観の前提である。
僕が弟に対して思うのは、彼は、自分自身の中にある悪を、上手く受け入れることができなかったのではないか、と思う。
周りから特別扱いされる中で、心の悪をどのように処理していいかわからなかったのではないか。

皆、愚かなんだよ。

覚悟について


大学時代の友人のブログを見ていた。
かつては多くのことを語り合ったこの友人とは最近は全く連絡を取っていない。
彼は「芸術」を信じ前に進んでいるのだろう。
対して自分は、「諦めた人間」ということになるだろうか。
まだそう結論付けたわけではないけれども。
互いに見る世界が変わってしまえば、話は通じなくなるものだ。
大人になるとはそういうことでもあるだろう。

「覚悟」の大切さに最近ようやく気付いた、と友人はそのブログに書いていた。
そして、覚悟を持つためには、「自分が辿り着きたい場所」を持っていることが必要である、とも。

読みながら思ったのは、自分には覚悟がない。そして「辿り着きたい場所」もない、ということだ。
それでいい、と開き直っているわけではないが、事実そうなのだから仕方ない。
色々なことを捨ててまで手に入れたいものなど自分にはないのだ。

大学時代あれだけ執着して描いていた絵も、この頃は全く描いていない。
「絵を描かない自分」に慣れつつあり、休日はただ本を読んだり映画を見たりということを繰り返している。
「普通」であることに慣れた。
「絵を描きたい」と思うことはあっても、すでに仕事でくたくたになった身体にこれ以上負荷をかけたくない気持ちが優先される。
絵を描くことが精神と身体のリラックスに繋がるほど、絵が好きな人間というわけでもない。

しかし、覚悟を持たず、これから先の人生生き抜けるだろうか、とは思う。
思いつつ、久しぶりの連休をだらだらと過ごしている。

先回り


「社会人」と呼ばれる存在になってから一年が経った。
最近になってようやく、「先回り」の大切さを知った。

大学の頃はスケジュール帳を持たない人間だった。予定なんて立てなかった。
「やらなければいけないこと」について考える時間が嫌いだった。
その場その場で対応していたが、それを満足にできるほど自分は器用でも優秀でもなく、常に焦って余裕がなかった。

この頃は、定時の出勤時間よりも早く出勤しているが、それも「先回り」を意識してのことだ。
そこで生まれる余裕が大事であると学んだ。
しっかり準備をしていると、自分が優秀な人間であるような気がしてくる。
逆に、全く準備をせずにいつもいつもその場その場で対応していると、自分がひどく無能で駄目な人間に思えてくるのだ。

「焦り」や「不安」をなくしていく。

プロフィール

モドル

Author:モドル
粉々になった「芸術」が、まだ少しだけ身体に張り付いている。

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