髪を切る


ようやく髪を切ることができた。
大学時代までほとんど千円カットを利用し、働き始めてからもしばらくはそうだったのだが、ふと「そこまでケチることもないな」と思い少し値段の高い理髪店に行ってみたところシャンプーの気持ちよさを知り、以降その店を利用している。
今日も二千七百円で切ってもらった。
千円カットにすれば、千七百円が浮き、そうしたらその分本を一冊買えるではないかとも思うが、自分はケチるという行為が嫌いだ。働き始めてからそれを自覚した。買い物の際に値段をいちいち気にして質の悪いものを選ぶのが嫌なのだ。
「お、いいな」と自分の感情の動きを感じたら、多少高くても即買ってしまう。
そういう風に「考えずに買う」ことをするために労働しているのだとさえ思う。
「感情の動き」というのが大事で、なぜなら自分にとって感情が動くということはあまりないからだ。
小さな感動を大切にしたいと思っている。
また、お金がないことによって自分の感動を「なかったことにしてしまう」のは避けたい。

仕事を持ち一定の収入が入ってきたことによって、「消費の楽しみ」を知った。僕にとって消費の楽しみとは小さな感動を得る楽しみである。
僕は大学時代アルバイトをしていなかったのでお金がなく、それゆえに知らず知らずのうちに小さな感動を捨てていた。お金がなくても精神の豊かさは得られると思っていたが、その考え自体がどこか窮屈なものだった。僕の精神は縮こまってゆき、日々余裕がなかった。

「テキトーに買い物ができるくらいのお金は必要」、というのが最近の僕の思うところだ。

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一休みの期間


今日もほぼ定時に退勤することができた。
ここ数日身体は、油断はできないが比較的いい状態が続いている。
多少余裕のある勤務ができているこの期間に、何とか身体の調子を上げていきたいものだ。

トマトスープを作った。上出来。
友人から借りた「ハングオーバー!」の続きを少し見て、「夜のピクニック」(恩田陸)を読み進めた。
「夜のピクニック」は高校生の物語だが、懐かしいという感情はない。
自分の経験とは遠いファンタジーとして、そこそこ楽しんで読んでいる。

知育玩具の「ラキュー」に興味を持ち調べた。
なるほど、作られた立体物の画像を見ているとなかなか魅力的なブロックだと思う。
小さい頃はレゴに親しんだ自分としては、ラキューに対して「偽物」といった印象を抱いていたがそんなことはない。
実際に買い、作ってみたいと思った。近々買うかもしれない。

心を落ち着けてブロックで遊ぶ時間に憧れる。


◎今日の文章◎

 あたしたちの「人生」はまだ先だ。少なくとも大学に入るまでは、あたしたちの「人生」は始まっていない。暗黙のうちに、そういうことになっている。進学校というレッテルの箱に入っている今は、全ては大学進学の準備が基本にあって、「人生」と呼べるだけのものに専念できる時間はほんの少ししかない。せいぜいその乏しい空き時間をやりくりして、「人生」の一部である「青春」とやらを味わっておこう、と思うのが精一杯である。まだ始まってもいない「人生」を、その乏しい空き時間のメインにしてしまうということが、あたしにはどうしても想像できないのだ。
「夜のピクニック」(恩田陸)


2017年5月13日土曜日


昨夜、久しぶりに絵を描いた。
三十分くらい描くつもりが描き始めると集中力が続き、結局一時間以上入り込んで描いていた。
気付くと朝六時だったので眠り、今日は絵の続きを描いた。先程完成した。

ここ数日、体調がいい。
残業時間が少なくなったことも影響しているかもしれない。
会社全体が「残業は悪」というモードに本格的に切り替え、また、幸運にアルバイトが入ってきて人員不足が解消された。
地獄のような日々からは、一旦抜け出すことができた。

絵を描いてみると、まだまだ「自分」は残っているなと再確認し安心した。
少しずつ、描く枚数を増やしていきたい。

「モディリアーニにお願い」を読みながら考えたこと


美術大学を舞台にした漫画、という点に興味を持ちこの漫画を手に取ったのだった。
作者の相澤いくえさんはまだ新人のようだ。
最初読んだ印象は、ざっくりと、
「絵が手描き風で嫌いじゃない」。
「人間ドラマが頭に入らなかった」。
「美術大学を舞台にしているから親近感が持てる」。
「しかしそれゆえに、登場人物と自分のギャップを強く感じ違和感を抱く」。
といった感じだった。

読んだのは数か月前のことだが、今日偶々、本屋でこの漫画がPOPと共に目立つ位置に置いてあるのを見かけた。
自分が買った時は奥の棚に背で指してあり恵まれない感じだったので、おや意外、と思った。

改めて読んでみるといくつか発見があった。

まず、この漫画では、登場人物の表情が「記号的」ではない。なかなか微妙なニュアンスを持った表情をしているのである。
そして同時に、実はそのことが、「人間ドラマが頭に入らなかった」という最初の感想の原因であることにも気付いた。

僕たちは一般に、漫画を読む時、「記号としての表情」にかなり依存しているのだ。
漫画の文字は基本台詞である。その台詞を繋ぐ重要な要素が登場人物の表情であり、それが表しているのは「感情」である。
僕たちが漫画を「読む」と言う時、読んでいる対象は、台詞と感情なのだ(恐らく)。
「記号的な表情」とは、感情が一瞬でわかるように(それこそ文字のように)表現した表情だ。喜怒哀楽がぱっとわかる表情。

単なる文字の連なり(台詞)を頭に定着させる糊のような役目を「表情」は負っている。
そして表情が「記号的」であれば文字との相性がよく、台詞はより頭に定着する。
結果、人間ドラマがよく理解できる、というわけだ。

「モディリアーニにお願い」の場合、表情が記号的でなく、それ自体が絵として独立しているために、大げさに言えば台詞と反発し合っているのだ。
必ずしもそれは悪いことではないだろう。
自分は今回の発見によって、むしろこの漫画の絵の魅力をより強く感じることができた。

漫画にとって、魅力的な絵は不可欠だ。
絵の力が強い。それはとてもいいことだ。その強さに、他の要素を合わせてバランスを取っていけば、きっといい作品になる。
2巻が出るのが楽しみだ。


弟のこと


弟のことが心配である。

小学校の頃は先生たちから評価され、運動もそこそこでき美術も得意で、クラスのリーダーのような存在でもあった弟が今のような状態になってしまったことを思うと、本当に悲劇(喜劇?)だなと感じる。
何が起こるかわからないものだ。
もちろん弟の人生も自分の人生もまだまだ先が長いのであり、本当の意味で悲観しているわけではない。
長い人生の通過点に過ぎない。一つの試練である。

ところで、弟は小学生の頃、「世界の平和」について考えるような少年だった。
世界が平和になるにはどうしたらいいかについて作文を書き、先生からも親からも褒められた。
自分はそのような弟に嫉妬していた部分がないと言えば嘘になるだろう。

ここで僕が思うのは、世界の平和について作文を書くような弟が、では普通の人よりも「優しい心」を持った人であったのか、ということだ。
確かに多くの少年たちは世界の平和について書いたりはしないだろう。だからそのようなことをする弟は「立派」に見えたし「特別な存在」に見えた。周りの人がそう見えるのだから、弟自身も、その視線を内面化し自分がそういう人間であると思っていたかもしれない。

しかし僕はある出来事を思い出す。
小学生の頃だろうか、弟とふとしたことで言い争いになった。何についてだったか内容は思い出せない。ただ、洗濯物を二人で畳んでいる最中だったという状況は覚えている。
結果、僕は弟に泣かされた。その頃は、弟と僕とでは弟の方が言語能力が高かった気がする。しばしば悔しい思いをした。しかしその時弟に抱いた感情は特別だった。「悪魔だ!」と泣きながら弟に言ったのをはっきりと覚えている。
僕がそう言った時の弟の表情は、思い出せそうで思い出せない。
僕は親にも泣きながら弟がいかにずるく、悪人であるかを伝えようと泣き叫んだが、両親はどちらも笑った。確かに「笑った」。

弟が僕に何を言ったのか、何をしたのか、僕がなぜ弟にそのような感情を抱いたのか、それが正当だったのかは今となっては全くわからない。
ただ、その経験は印象に残っている。

今の僕は、弟が決して悪人であるなどとは思っていない。むしろ優しい人間であると思う。
しかし、優しいだけの人間が存在しないことも事実なのだ。人は皆心に悪を抱えている。
人は皆愚かだ、というのが今の自分の価値観の前提である。
僕が弟に対して思うのは、彼は、自分自身の中にある悪を、上手く受け入れることができなかったのではないか、と思う。
周りから特別扱いされる中で、心の悪をどのように処理していいかわからなかったのではないか。

皆、愚かなんだよ。

プロフィール

モドル

Author:モドル
粉々になった「芸術」が、まだ少しだけ身体に張り付いている。

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